ゲストNO, 20818

<2009年11月11日更新>
更新内容
日光・田母沢御用邸
ベルリンの壁崩壊20周年
西ベルリン地下鉄  

****季節のご挨拶****



紅葉のいろは坂を目指したのですが
前日の嵐で既に落葉

麓の日光・田母沢御用邸に立寄りました

皇太子時の大正天皇の静養地として造営された1350坪の超大邸宅
明治時代の日光在住の銀行家の別邸に
迎賓館建築の際に解体された紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し
更にその他の部分を追加建造したという



公開にあたり大規模修復をし
その際に徹底的に全て洗出しをした為に
柱や天井板は新築の様に真新しく見え
引揚式の雨戸、煙抜き天井などの仕掛けが隠されていたりと
木造建築の素晴らしさを感じられる実物博物館でした




****************

1989年11月9日
ベルリンの壁が崩壊して20年になりました





1975年
西ドイツから夜行列車で
鉄条網、サーチライト、銃を構える兵士に囲まれ
徹底的な検査をされた国境の駅を越え
友人を頼って西ベルリンを訪ねました


一番印象に残ったのは「ブランデンブルグ門」

「ベルリンの壁」は何とも不思議な仕組みでした

展望台に登り西側から壁越しに東ドイツ兵の警備する東側を覗いた
翌日
地下鉄で国境を越えて今度は東側から壁越しにさっきまで居た西側を覗く

「何やってんだろう?」が率直な感想でした



東ベルリンの街並みは
戦争の傷跡そのままの瓦礫の山の脇に
不釣合いな10階建てビルが整然と作られていました

社会主義とは計画経済とはこういう物か
10年後には立派な都市になるのだろうと妙に感心したものです

何とも生活観の無い殺風景な街でしたが
安い値段でビールが沢山飲めたのが嬉しかった事を覚えています




*




1998年
次男との二人旅でベルリンを訪ねました
「ブランデンブルグ門」周辺は
壁も無くなり通過交通の要所となっていました

4車線道路の中央分離帯の中でわざわざ記念撮影をする親子

「何やってんだろう?」と ベルリンっ子に思われたかも


「チェックポイント・チャーリー」は無くなり
小さな博物館で東からの脱出に使われた
トラバンテなどが展示されていました



*  *  *




これは私のお宝の一つ
1975年当時の西ベルリンの地下鉄路線図です
(注)黒細線は東ベルリン側の路線


中央部のアップ



薄ねずみ色の太帯がベルリンの壁です

冷戦時代の象徴とも言うべき存在ですが
この壁の下を潜り東ドイツの地下を西ドイツの地下鉄が走っていました

紫、緑、青の太線が西ベルリンの地下鉄路線
■の駅は普通の駅ですが
□の駅は列車は止まらず乗降出来ません

東ベルリン側だからです



西側の通勤客で満員の地下鉄電車が
毎日国境線の地下を超え
煌々と明かりが灯り
東ドイツの国歌が流れ
東ドイツの国旗が一杯掲げられ
東ドイツの警備兵が銃を構えて警備している
東ドイツ国内の地下駅を最徐行しながら通過するのです



唯一「Friedrichstr駅」だけは電車が止まり乗降出来る駅でした
そしてここが国境でした
地下鉄駅から地上に出ると東側の検問所がありました


分断前に作られていた地下トンネル網には
通気口や排水溝もあったでしょうし
保線などのメンテナンス作業もあったでしょう
これらは東ドイツによって厳重に分断警備されていた筈です

何とも馬鹿馬鹿しい光景でした


壁を乗越えた東ドイツ市民は銃撃され
同じ壁の下を西ドイツ市民を乗せた公共交通機関・地下鉄が通り抜ける


これが冷戦最前線、国家というものがやっていた事
何とも子供じみた大人の世界でした


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